コントユニット青点滅の日誌

青点滅の主催、ワカバヤシが書くブログです

長野で演劇やってる人は「自分が良い表現をすること」を優先してる人多いよって聞いた。それは残念すぎる。

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結構、めんどうなことを書きますので、紛らわせるために北海道の「青い池」で撮った写真を載せておきました。キレイですよね。コロイドっていう粒子が入ってるから、太陽光に反射して青く見えるんですって。

  • 自分が良い表現をすること
  • より良いものを届けること


この二つは、正反対ではないけれど、どっちを舞台で優先するかによって、その人の姿勢や考え方が大きく異なります。

僕は完全にお笑い畑のことしかわからないので、「より良いものを届けること」を優先するのが当たり前だと思ってきました。語弊なきように言いますが、より良いものを届けるために、「自分が良い表現をする」というのは至極真っ当な考え方です。なんども言いますが、あくまで優先順位の話です。


恥ずかしいからあまり言いたくないのですが、青点滅の公演本番。僕は出演者に「みんなで笑い声を聞きましょう」と言ってます。

笑い声こそが合格点であって、当たり前ですが大爆笑を起こすために、わざわざ数ヶ月も練習して、本番に挑んでいるわけです。本番、まったくウケなかったコントがあると、凹みまくります。羞恥心で死にそうになります。出演者に対して、舞台上でスベらせてゴメンーー!という気持ちになります。

つまりは、お客さんの満足度が何よりの優先事項。より良いものを届けることが優先。それ以外に無いのです。誰に教わったわけでもないですが、お笑いをやり始めた頃からそれは変わっていません。



しかし。



長野で演劇をやってる人の中には「自分がいい表現をすること」を優先している人が結構いるよと、そんな話を最近聞きました。ナンジャソラ。そんなだったら、お客さん入れなきゃいいのに。

コメディ以外の演劇には「笑い声を聞く」という、明確なバロメーターがなく。「より良いものを届けよう」と思っても、その指針がないから自分の気持ちをコントロールしづらいのかな? そうなると確かに、「自分がいい表現をすること」が優先されるのも少し分かる気がする。(それでもお金払って来てもらってる目の前のお客さんよりも、自分を優先するのは意味がわかりませんが)


僕はいわゆる「演劇」というものを全く知らず、もうちょっと勉強した方が良いのかなと思っていたりもしましたが、いや待てよと。「自分がいい表現をすること」を優先しちゃうような人が演じてるなら、そんな演劇、観たくない。


長野松竹相生座で「劇団☆新感線」の公演が、「ゲキシネ」という形で上映されています。長野で演劇観るなら、「ゲキシネ」のような安心感あるやつしか観れなくなっちゃう。



と。そんなことを考えていると、もう一つの疑問が沸いてきます。



青点滅に出てもらっている人は「自分が良い表現をすること」と「より良いものを届けること」、どっちを優先しているんだろうか。今までそんなこと考えたことがなかったけれど、大事な問題だ。